リッカルド・ムーティーかく語りき。
2004年1月1日 毎年元日は、ウィーン楽友協会大ホールから中継されるウィーン・フィルの新年コンサートを見る。今年の指揮者はリッカルド・ムーティーだった。
このコンサートは、アンコールの最後から二曲目に「美しく青きドナウ」を、最後に「ラデツキー行進曲」を演奏するのが習いとなっているのだが、「ドナウ」の直前に指揮者が短くしゃべって、その後演奏者全員と共に「新年おめでとう(Prosit Neujahr)」と客席に挨拶するのが習慣である。しかし、今年のムーティーの挨拶は長かった。
彼はもともとイタリア人で、英語は明らかに流暢ではなかった。しかし、「この紛争の時代であるからこそ、ヨハン・シュトラウスらの音楽を世界にもたらし、その寂しさと喜びを伝えて世界を一にしたい」という切々とした語りかけには迫力があった。
これは彼が政治的だからというわけではなく、彼自身にとってイラクを始めとした多くの地域で今も行われている争いを自分の隣で起きているかのように感じているからだろう。つい一昔前までは遠い世界で行われていたことだったのが、すぐそばで行われているかのように感じるようになったのだ。それだけ、地球は狭くなったのである。
我々は今まさに時代が転換していくただ中に生きている、そんな気がしてならない年の初め。
このコンサートは、アンコールの最後から二曲目に「美しく青きドナウ」を、最後に「ラデツキー行進曲」を演奏するのが習いとなっているのだが、「ドナウ」の直前に指揮者が短くしゃべって、その後演奏者全員と共に「新年おめでとう(Prosit Neujahr)」と客席に挨拶するのが習慣である。しかし、今年のムーティーの挨拶は長かった。
彼はもともとイタリア人で、英語は明らかに流暢ではなかった。しかし、「この紛争の時代であるからこそ、ヨハン・シュトラウスらの音楽を世界にもたらし、その寂しさと喜びを伝えて世界を一にしたい」という切々とした語りかけには迫力があった。
これは彼が政治的だからというわけではなく、彼自身にとってイラクを始めとした多くの地域で今も行われている争いを自分の隣で起きているかのように感じているからだろう。つい一昔前までは遠い世界で行われていたことだったのが、すぐそばで行われているかのように感じるようになったのだ。それだけ、地球は狭くなったのである。
我々は今まさに時代が転換していくただ中に生きている、そんな気がしてならない年の初め。
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